―特集― 私の死生観
『猫から貰ったもの』
行灯 真昼

 私の死生観として題材を頂きました時、
一番最初に連想したのは猫でした。
私の家は、私が生まれる前から猫が多く住んでいて、
母に幼い頃を聞くと決まって猫との話をしてくれました。

赤ん坊だった私が寝ている足元にいっつも猫がいたとか、
自分で動けるようになると猫の後をついて行って、
冷房機の前で寒くて動けなくなったりだとか、
終始猫の真似をしてこの子は自分の事を
猫だと思っているんじゃないかと母は思っていたようです。

そして自分自身思い出せる幼い頃の思い出でも、
確かに私は猫の真似をしていたな、と。
そんな風だったから、成長するにつれ、
猫の死という出来事にも直面します。

昨日までは一緒にいたのに、今日にはいない。
いつの間にかいなくなっていて、何処に行ったのか、
いつ帰ってくるかもわからない。
不安になって母や周囲の人に聞くと、
死期を悟ったのだと言われる。

猫は、自分の死期が近付くと誰もいない所に行ってしまう
のだとか。
その話を聞いて、私が思ったのは憧れでした。
私もそういう最期が良いと、幼心に思ったのです。

深い森の中、木々が生い茂って日の当たらない暗い森。
落ち葉の引き詰められた地面の上で横たわり、
虫にたかられながらも、抵抗する気力すら湧かずに
無抵抗の中、一人寂しく走馬灯を見ながら
このまま朽ちて虫に食われて自然の一部になるのだと
想念しながら死んでいく。

そんな自分を思い描いては、今も尚、
どうすればそんな未来を勝ち取れるのかと
考えて生きている。

きっと死に際は、惨めなものになりましょう。
苦しくて、悲しくて、寂しくて、無念に悔恨する。
そんな最期になりましょう。
それは同時にそうありたいという自分の願いでも
あります。

これは願望で、欲求で、今の私の至上命題でもあります。
そしてこれまでの私の帰結でもあると考えます。
私は将来どんな死に方をするのか、
それは今まで、そしてこれから、どんな生き方をするかで
決まるとも言えます。

幼い頃から私は、常に考えてきました。
どうすれば、彼等=猫のような死に方を
得られるだろうかと。
想起しては、ああでもないこうでもないと、
今日こんにちまでやってきました。

自分の思い通りになる事なんて、
世の中でどれだけあるというのか。
自分の願い通りの最期なんて、
得られるとも知れず、手探り状態の中、暗中模索する日々。

願わくば、世捨て人のような生活がしたい。
人の通わぬ場所で、小屋の様な棲み家で、
自給自足の生活が出来たらどんなに良いか。
埒も無い夢を描いては、無理だなと諦める。

どんなに人里離れた生活をしていても、
人との繋がりを断つ事は出来ず、
ましてや自給自足の生活の中にも、
現金を必要とする瞬間はやってくる。

現実問題、隠者のような生活というのは、
“のようなもの”でしかないのです。
少なくとも、私の望みに近いというだけであって、
望み通りではない。儚い夢。

なので、行き当たりばったりに生きる事にしました。
元々、したい事しか出来ない性格故、
義務や責任の為に生きられない私です。
思うままに振舞って、行き当たりばったりに逃げ回って、
辿り着く其処が私の行き着く場所なのでしょう。

 私が人生の節々に直面する選択肢を選ぶ時、
私は常に問い掛ける。
「生きるべきか?」「死ぬべきか?」と。
二者択一の選択肢に、
「選ばない」という第三の選択肢を添えて、
その時々の時流に流されたり逆らったりする。

そうすると、不思議と悩んでいた事が一本に絞られる。
「今この選択を選ばないのは、
死を選ぶ程の事なのか?」と。
「そうではないなら、もう少し生きてみよう」という
考えに至る。

時流に流される時は、どちらを選んでも良い時、
どっちの結果になっても構わない時に、
選択肢を世界に委ねる。
それが良い時もあれば悪い時もあるが、
悪くなっても良いように前もって心構えだけはしておく。

およそこの三つの選び方で、
大体の人生が送れるのではないだろうか。
少なくとも、いままでの私の人生はそれらに彩られている。
刃を自らの喉元に突き付けて問い掛ければ良いだけだから。

 以上が私の死生観です。
大分大雑把に、羅列しただけの文章ですが、
そういう見解もあるのだと面白がって頂ければ幸いです